こころの通わない「消費」の世界

ページを開いてくださってありがとうございます。ひーちゃんです。

 

最近、

人との関係にモヤモヤしながら浮かんできた想いが

 

「わたし、消費されてる?!」

 

でした。人に使われる言葉なのかは分かりませんが、そう感じるのです。

言いかえると、

 

▷思いやりが感じられない

▷まるで他人ごと

 

こんな感じです。お願いされているはずなのに他人ごとのようだったりすると感じ良いものではありません。

 

応えよう、一生懸命になればなるほど、残るのは

 

『・・・虚無・・・』

 

 

みかえりを求めているからなんでしょうか?

期待しているからなんでしょうか?

 

相手に鋭い矢印をむけることが悲しくて、やめようとすると

自分自身に厳しくなってしまったりします。

 

でも、

とある作業中に感じたモヤモヤが私の価値観を浮かびあがらせたように思うのです。

 

作業を2人ずつで手伝っていた時

私の相方になった人は

「ノルマはこなしているから、いいでしょう」

「ここだったら確率高いし、終わらせちゃいましょう」

 

そう口にしていました。

終始共感できなかったんです。

 

たしかに求められている最低限はこなしているかもしれない。

でも、

 

ここまでの想い、あるいは作業の先の人、感動

それを思ったときに、

 

これでいいんだっけ?それって消費に近いんじゃない?

 

私自身がモヤモヤしたり、悲しくなったり、心が泣いちゃった、

あの消費だなぁ

 

そう思いました。

 

見えていてもいなくても

相手に、誰かに、

 

想いやりをもてるか、大事なことだなあ。

優しい心を持っていたいなあ。

 

 

一緒に作業を進めているはずなのに、心がすれ違っているなと感じていました。

そして、違っていることに気づくかなあって

試してみたくなりました。

 

こんな風に振る舞ってみたら、こうしてみたら。。。

 

 

同時に、そうじゃないんだろうなあ。

こういうときこそコミュニケーションなのかなあ。

 

(相手はその消費に気づくこと求めてるの???)

 

なんて心のざわざわが、どんどん距離を遠ざけていきました。

 

結果、時間が過ぎるのを待つ感じになり、こなされた仕事。

私は、誰かの想いを、チャンスを、今日を、消費してしまったのでしょうか。

 

「まじめだね」

そんな空っぽの言葉はいらないなあ。

『空っぽのことば』についても後々書きたいなあ。

 

今日はできなかったことがある。

けれど、たくさん葛藤して、心がいたいなあって感じている。

 

こんなちっぽけなことが、またなにかに繋がっていく

そう信じた記録。